孤独死とはなにか? 葬儀とはなにか?

半分夢の中で、あの人のことを思い出していた。

孤独死について書いておきたい。と、ふと今朝の目覚めの時に脳みそがはっきり目覚めるまでに考えた。

忘れないようにとメモを取りながらあ、そういえばそれに続く葬儀のことも書いておこうと気がついた。

《やもめのモアイ》のブログなのにね。書くべきことも書いておこう、と・・・

このブログはもっとも身近な妻の死から始まったブログなものだからどうしても死の話に近いブログになりがちです。そこのところは了解していただく。(いただかなくても書く、いつもの通り)

孤独死とはなんだろう?

ある親類筋にあたる方が数週間前に孤独死をした。

コタツで眠るように亡くなっていたそうだ。何十年かぶりで近況を伺ったところ、旦那さんが何らかの病に冒されていて近々手術をする予定であり、その準備のために入院していた間に起こったことだそうだ。

おそらく、勝手な想像ではあるけれど、妻として夫の病を気に病みつつ病院通いを続け身体の疲労と心労が積もり続けた結果の死なのだろう。何も言わず黙って独り耐え続けるような人だった。たぶんだけれど見立ては間違っていないと思う。子供は二人とも巣立っている。

ちょうど70歳だと思う。平均寿命よりは10年ほど早かったなぁ。

何事にもキチンとした人だった。あの旦那さんはこの奥さんがいたから生きながらえてこられたのだ。とこれも私感です。

そういう人だったので、そういった意味では他者に迷惑をかけてしまうような? あと片付けが大変になるような状況ではなかったそうで、不幸中の幸いではあったと考えて良いのだろう。良い意味での因果応報だったのでは? と思う。

そういうことから「孤独死とはなんだろう?」「自分だったら・・・」と考えてしまう。「人の振り見て我が振り直せ(ひとのふりみてわがふりなおせ) 」な人なので自分だったら・・・どういう状況になるのか?なんて考えてしまうのです。

筆者だったら・・・もし数年前の《やもめのモアイ》だったら人様に散々迷惑をかけるような死人になっていたと思う。まぁ発見は遅れていたなぁ・・・

今?今だったら24時間以内には発見されるでしょうな、ネコいるし餌もらえないとうるさいし、同居人も気がつくだろうなぁ、、、と。(同居人については個人情報ということで許されよ)

そういえばその数年前の、死んだら見つけてもらえない時代にちょっと不思議な事があって未だに忘れられない出来事。
あ~、でも別なところで書きますね。す~ぐ話を広げてしまうんだから悪い癖ですね。やもめもやまい(回文)という筆者の持病のカテゴリーがよいかも。

孤独死は不審死だから・・・

そうなのだ、孤独死は死因がわからないまま、いつの間にか死んだために法律では不審死扱いになり解剖をして死因を探る必要があるのだ。

そのためにしばらく御遺体は返してもらえないまま、遺族はジリジリとしながら待つしかない。

看取る、看取られる。どっち?

これ、理想だとは思うのです。臨終の床で子どもたち家族、孫とかに若い柔らかくて温かく優しい手に包まれた自分の手にぬくもりを感じながら看取られる死に様。いいですねぇ。

「インターステラー」という映画をご存知ですか? ちょっとネタバレですけど、主人公の父親よりも年を取り老衰で臨終の床にある娘が、その子孫一族に見守られながら逝くシーンがあるのですが、見ていて「あ~生き切った人なんだなぁ」って感じたのを憶えています。

このときの父親も一族ではあるのだけれど同じ時間の共有は一切なかったわけで別な時間軸の中でその娘も含めて人類のために孤軍奮闘してわけで、ちょっと違和感、居心地が悪そうで、報われなくて可愛そうなんだけど、それをわかっている風の天才娘から「行きなさい」と同じ時間軸で戦って置き去りになっている女性を助けに行く光景を見て「良かったねきっと報われるね」と思うわけですよ。

で、そう看取る看取られるといえば私は看取られる方がいいですね、看取るのはもう結構ですし、誰でも1度はあるはずの《看取られる時》を楽しみにしています。来世はどんなん?ってこともありますけれど、消滅でも可なわけで、おっとこういう話はここ辺りでスべき話ですね

看取ってもらえない状況

これだけ交通機関が発達してどこにでも飛んでいけるような状況になったとしても間に合わないことはある。どうしてもその時に立ち会いたかったら缶詰状態自らなって何日もときには何週間も我慢するしかない。

現代の生活はそうはいかない、仕事もある、家庭もあるしもしかしたら学校だってあるかもしれないわけで、立ち会えなかったことを気に病んではいけない。

看取れない、看取ってもらえない状況だって起こりうるのだ。先に逝くのであればそういうことも理解しておくこと。

特に病気のときには治療やその他のストレスからイライラいらして看病人や面会見舞い人に暴言を吐いてしまうときもあるけれど、早めに謝っておくこと、間に合わないこともあることを知っておこう。

改めて「孤独死」ってなんだ?

「孤独死」ってなんでしょうね?

死というのは誰にでもくるわけで不老不死の薬ができたとしても我々庶民のところに回ってくるまでにその薬が原因の戦争くらい起こりそうな大変な薬で、まぁ、いま現在この世に生きている人では間に合わないのでないでしょうかね(笑)

やもめの考えなので少しこう強引でちょっと厭世的かもしれないけれど、、、変に救助が間に合って延命処置で苦しむよりは良い死に方かも。以前確かNHKだったと思うのですが、延命処置のために胃ろうの是非を討論していて、出席者の若い女性が「いや私は賛成でいまおばあちゃんがいるのですが、どんな形であったとしても生きていて欲しい」というようなことを発言していて、ゾッとしたことを憶えています。

生まれたばかりのヒヨッコが、とは言いませんけれど、「死」というものに触れたことも考えたこともないような若い孫のために苦しみたくはないけれど、それも孫教育の一貫だとしたら、、、ちょっと辛い。

何をもって死と向き合うか、誰にでも訪れるはずの死であるならばひとつ静かに迎えたい。人生最初で最期の一大イベントです。

だから独りでもいいかな。

と思うのでございます。

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葬儀とはなんだろう?

孤独死のことを考えていて妻の葬儀のことを思い出した。

いつもと違いちょっと真面目に書いていく。

通夜、葬儀、供養とは誰のためにあるのだ?

これには各人思うところがあるのではないかと思うので、あくまでも後日(数カ月後か数年後か)に思いつたことだけれど、葬儀というのは故人のためだけにあるのではない。

  1. 確かに宗教的な考え方をした場合には故人の霊が無事あの世に辿り着けるように。があるだろう。
  2. 生き残った家族、身内が故人との別れを段階を追いつつ時間をかけて故人の死を認識するため。
  3. 地域社会に故人が亡くなったことを知らしめるため。
  4. 故人の生前からの生き様を尊重し死者の尊厳を記憶するため。

そんな意味合いがあって、筆者《やもめのモアイ》はもっとも重要な目的はこの世に生き残った人々の心を癒やすことだと考えています。

遺された人々のため

仏教の通夜、葬式、供養の一周忌と一定の期間、喪に服しつつ徐々に故人とのお別れを完結していくための期間だと考えると良いのだろうと思われます。

個人的な意見でしかありませんが、亡くなってから一周忌くらいまでは目の回るような忙しい日々になります。

その一周忌までに心の整理までつけるなんてことはできません。いや筆者はできなかった。おそらく七回忌まで必要だったなぁ、、、と。

できなくても仕方がないよね。と気を楽に置いておくと良いでしょうね。仏教の教えとして一周忌の終了とともに喪が明けるという説が有力のようですけれど、三回忌、七回忌、十三回忌とあるのは、人によっては何年も何年も心の喪を明けられないことだってあるものだ。と解釈しています。

仏様の教えとして間違っていたらごめんなさいですけれど、それぞれ個々人の心の中にある故人との日々を、追憶という箱の中に詰め込み片付けていく作業を誰も強制はできませんし、仏教を作った仏様も人間のそういうグズグズしたところも愛してくだすったのではないですか?

そういうことであります。

宗教の将来を考えて見るに・・・

人々がそれほど純朴でもなく、「死」について知識もなくて、噂だけであの世とかこの世とか考えていた時代ではなくなってきたわけで、もう少し科学的、哲学的な「死」についての情報も(孤独だけでもこんなにあるのだ。

宗教も葬儀に関する形を大きく変えていくことが必要になっていくのでしょうね。

お墓についてもそうですが、だいぶに様変わりしてきているようです。今度また真面目な厳粛な気持ちになったら書きましょうな(笑)

おかしな宗教家

一時期流行った時代もあったようですが、「先祖をちゃんと供養しないからだ」などと宣うお坊さんがランボルギーニのような超高級車を乗り回してテレビ出演に走り回っていたりしたものだけれど、いつのまにか絶滅しましたね。良かったよかった。

おかしなもので、例えばだよ亡くなった自分の親がお墓の掃除を怠ったからといって祟るか? ってそういう話です。

筆者が死んだとしたら子孫にそんな怒りをぶつけるわけがありません。

「良い良い、自由に生きなさい君たちの時代だ。なんならお墓潰してもいいよ。でも『墓じまい』というキーワードで検索して調べてからにしなさいね。周りの誰かの誹り(そしり)や恨みを買わないように迷惑をかけないようにね。死んだ人間よりも生きている人間のほうが怖いのだからね。楽しんで面白がって生きていけるようにそのへんだけはしっかりね!!」

◆死んだ人間よりも生きている人間のほうが怖いのだからね。

この言葉は若い頃どこかから仕入れた考え方で今でも確信していることなのですが、ちょっと思ったのはそれを恐れてばかりでは先には進めないということも同時に思い出すことが大切だ。といまは考えています。

前述のお坊さんのように人が他者を思うさま強制し支配しようとする人間もいる。ということがもっとも恐ろしいことなのです。

そういう人間にこそ仏罰、神罰が当たることでしょう。因果応報という言葉の悪いほうの意味で使われて良いのではないかいな。

亡くなった直後から始まる苦行? 筆者の経験から

葬儀は一種の苦行のようなものだと考えます。

故人の名誉を護り、生前の生き様とおりに故人らしい葬儀にしてやらねば!!、遺族として夫として妻として、子として、親として思うことではないでしょうか?

生まれ故郷でもない地方で、その土地、土地で違う風習に戸惑うことなく進めてこれたのは、やはりその土地の葬儀に精通している葬儀屋さんでした。ここだけでも負担が少なくなっていたことにあとで感謝することになりました。

それでもですよ、通夜、葬式、四十九日、一周忌くらいまでは心安らかにはいられませんでしたよ。もうそういうものだと思いこませて淡々と進めていくしかないです。

言い方変かもしれないけれど、「泣いている暇ないですよ」だから苦行なんです。「人としての修行」と言っても良いかもしれない。

送ってやらねば・・・迷わぬように

「あの世に行く道に迷わぬように・・・」としっかりとした故人も恥ずかしくないようなお葬式にして送り出したい。

それで良いのだ。

とそんな考え方で、、、乗り切ったものです。

だからこそ、なのですが、そういう純粋な人の心を自分のものとするための苦行また修行なのであって、本当は葬儀というものは遺された人がゆっくりとじっくりと故人との別れを完遂していくための時間だ。と思うのです。

ではまた。

《あとがき》

この時間に頭に浮かんでくる事柄というものはけっこう大事なことだったり、大切な思いであったりするわけで、この時間に考えたことをすべてブログに書き出せたなら他のブログも含めてもっと更新頻度の高いブログになるだろうね。夢に近い思いだから結構忘れてしまうのだ・・・

「朝から何を考えてんだこのバカ」ということであるけれど、最近、そのとおりの出来事が遠い記憶の遠いところで起こったもので追憶の一つとして寝ぼけ脳に浮かんできたのだ。