[持病とうまく付き合う]一病息災という考え方が気に入っている。

筆者、「病は警告!」と書くことが多い。

だからこの「いまやもめもやまい」というカテゴリーもそのまま続けてもいる。

 

一病息災という考え方は、

人間ひとつくらい持病を持っていて、その病に気をつけながら日々を送るくらいのほうが長生きできるものだ。というような意味だ。

一病息災で検索してみるとよい。

妻は癌で亡くなったが、筆者は糖尿病の診断を下されたことがあった。この持病と付き合うようになってから初めて自分の身体と対話をするようになった。

 

「おまえ今日はどんな具合だい?」

「ちょっと食い過ぎ、飲みすぎじゃないか」

「ちょいとダルくないか?」

こんなふうに時折自分の身体に問いかけて気づかってやるようになった。

しかし、こうも思う、あまり世間や医者がいう「こうでなくちゃいけない」「あーしなきゃいけない」と例えば数値にばかりこだわっているとなにかを見逃すようにも感じる。(また別な機会で書くつもり)

 

ここ数年、少なくとも病の進行具合は止まっているように思うし、入院騒ぎのときの180の超高血圧からはとっくに脱している。最近こんなもを手に入れて重宝している。(実は娘が買ってくれたのだ)

なんかのCMであったね「先生、血圧が130以上あると高血圧なんです」とかなんとか? あれもちょっと大概にしておかないといかんと思うわ、全体の平均もいいけれど、個々人にも適正血圧みたいなものがあるはずだよ。

私は子供の頃から脚気の気配があって膝下を叩かれてもビンとなることはずっとないまま今の年齢まで生きているのだ。

一時、痛風になって七転八倒の痛みに耐えつつ片足けんけんでトイレまで言った経験もあるしその時の市民病院の医者は「あなたはこれから一生この薬を飲み続けなくてはいけない」と言われたことをよく覚えているけれどその時に思ったのは「なにぃ、ならば治したるわい!!!」と強く思い込んで、そのときに飲むときには浴びるように飲んでいたビールを一切やめてウィスキー党になったことであの痛みの発症は何度かの発作の前兆を察知したことはあるけれどここ十数年発症しなくなったよ。

そういうものだと思うのだ。

もちろん命の警告のときだってあるのだから健康には気を使っていきたいと思うけれど、限度をわきまえていきたい。これで駄目なら寿命なのだ、で済ませて寿命なり運命なりのせいにして押し付けてしまうつもりだ(笑)

 

 

ただ最近は血糖値を測っていないなぁ・・・

生活習慣病の怖いところは「もう治ったんじゃ?」という過信なのであって、そう簡単に変えられないのが生活習慣なのだ。

その意味から、これからも一病くらいと上手く付き合っていくくらいの心にも生活にも余裕を持って生きていきたいものだ。

 

「一病息災」と「病は警告!」という意味も同じようなものだ。と気がついた。昔の人がすでに語呂の良い言葉で表現してくれていたのだね。

ただし、筆者が言う病は警告だから、「あなたの命はもうすぐ終わりますよ。できるだけ悔いの残らないよう時間を大切に!」も含まれている警告だ、と考えていたのでもう少しきついかもなぁ・・・と思ったのだ。

 

ときたまに思うことは妻は「その警告を上手に使えたのだろうか?」「使えるように支えてやれたのだろうか?」と考えると答えは、「否」だ。

 

 

「通常であれば人間年を取れば身体のどっかに一つくらい不調なところがあっても可怪しくはないのだから一病息災だよ」なのであるけれど警告は人生の終焉も視野に入れてしまっているのだが、まぁ仕方がない妻の癌という体験をしてしまった身であるから深刻にも受け止めてしまうのだろう。

 

しかしだ、人の死というものを、深刻にじっくり受け止めて考えてきたからこそ、たぶん、おそらく、ではあるけれど、一般的な普通の人様に比べてみると「人として、生物としての死」はそれほど恐ろしくはなくなっていて、否、恐ろしくないどころか、ちょっと楽しみでもあるようになったんだなぁ・・・ただし、自らどうのこうの、ということではなく、あくまでも自然にその時が来るまで一生懸命、人生を楽しもう、と考えた上でのこと・・・でありますよ。

 

 

ではまた。

 

 

《あとがき》

眠れない25時に寝床でこんなことを考えていましておもむろに書き始めました。なぜか知らないけれどこの25時代は眠れないことが多くて、この時に考えたことをブログにしたいと思うのですが、すぐに書かないと忘れてしまう。(今日は成功日ですな)

 

せっかく礼和の時代が始まって同じ年齢の天皇陛下の時代はおそらく人生最後の言語であろうと考えまして、せめてこのブログは正直に書いていくようにしようかと・・・