久しぶりにまともに書きます。
正直言いますと、あのポスターをみてなんとも感じなかった。少なくとも悪い感情? 批判するような印象を受けなかった自分はどっか変なのかな?
そう思っていました。
人生会議? 意味はまだ良く理解していないのかもしれないけれどざっくり「『自分が終わるとき』を見据えてしっかり準備しておきましょうよ」ってポスターなのだろうと思っていました。また思いつくことはちょくちょく話題にもなる「死ぬときに後悔する10のこと」のような後悔をできるだけ少なくしていきましょうよ。って話だと思うのです。
そうするためには、しっかり周りの人と話して、自分自身の意思を伝えておくための「人生会議」なんじゃないかな?
まぁ大意は概ね合っているのでしょう。
で、と、ちょっと探してみたら
やっぱあっていたようです。
まずまちがいなく「人は何れ死ぬ!!!」のだよ。その時を予測するためのデータもたくさんあるし・・・
裸で生まれて、寒くてわんわん泣いていたら服を着せて温かくしてくれて、食い物を与えてくれて、その成長を喜んでくれて、「生まれてきてくれてありがとう」なんて言われちゃっていい気になって「自分一人で大きくなったようなことを平気で豪語するようなバカな人」も人の親になって初めて理解するものなのかもしれない。
また身近な人の死を体験して、何年も何十年も様々に考え続けて初めて納得がいくことだってたくさんあって・・・
始まりがあれば終りもあるわけで、当たり前なことを当たり前に理解できる人間ってすごい生き物なんだと思うんです。
例えばこれから数年後数十年後かに不老不死薬が開発されて病気で死ななくなったとしても、人間何で逝くのかわかりません事故であったり天災であったり手塚治虫さんの漫画でもありました死ねない苦しみに耐えかねて、なんてね。
終りがあるから始まるのですね。
生き物ってのはそうやって生まれてきて、今度は死ぬときくらいは、、、たしかにいつ死ぬかはわからない。(生まれたときだってそうだったでしょうよ)でもせめて「なんか周りの人達が死に始めたよ、同じくらい生きてきた自分もそろそろかな・・・」と考える、考えられることができるのが人間の人間たる所以です。
他の生物に比べて「そろそろかな」と辺りがつけられる知能を獲得している生物です。
あの鼻に酸素を送るチューブを装着した姿は、たぶん柔らかく表現してるのです。
医療の問題で一度装着した人工呼吸器は死亡認定がない限り法律として外せなくななる。殺人になってしまう。よってそのまま高額な医療費を遺族候補は払い続けないといけない。というような問題がありますよね。
そこなんじゃないかな。。。
また、死亡させてしまうことで病院の評価が下がるとか、もですね。
「死なせない医療」でしょうね。
そこを変えていきたいのではないかな?
それに団塊の世代が死に絶えて医療を必要とする老人も減少することで病院も減っていく。いまではもう癌でも自宅療養が当たり前になりつつありますね。(そのためには早期発見してよ。って世界)未来を見据えた役所としての準備でしょうね。「上手に死んでくれよ」って話ですね。
あの、、、半分皮肉で書いているけれど、批判はしませんよ。仕方のないことなんです。人類の不完全さの表れみたいなもんだと考えています。はい♪
一種、問題提起してくれているのでしょう。
今回はこのポスターを葬ることで、「死に対する意識の、、、」低さ?と言ったら良いのかどうかわかりませんけれど、そのへんの確認作業ですかね。
「やっぱり人はいつか死ぬわい」ということを少しでも理解してほしい。そういう思いが入ったポスターだったのかな、って。
私はそう思うのです。 私はね
しつこいけれど、「人はやっぱりいつか死ぬ」のでありまする。
このブログでは何度も書いていますが、私の妻は40歳で癌が発見され41歳~42歳のちょうど平均と言われていた寿命の真ん中であの世に逝きました。
で、そこで確信したことは、
「確かに人はいつか死ぬ」
「それは人並みの年齢になったら、ではないのだということ、早いことも遅いこともあるらしい」
もしかしたら、神様であったりあの世でのルールで生まれてくる前に決まっていることなのかもしれません。ないとは誰にも言えません。
魂はあるのかも、ないのかもわかりません。それこそいつか死んで見ればわかるのかもしれない。彼女が死んだあと、彼女のいたづら(いたずら)のような不思議なことが多々あったことは間違いなく記憶に残っているものですから、いつか確認できたらいいな、と思うのです。(そういう話はまた別なカテゴリーでね)
間違いないのは肉体としての死は確実なのですね。
確実に間違いなくくることを変に恐れ慄く必要はないのです。死の恐怖をなかったことにはできないわけで、「いつかは・・・」程度でも良いのでは思いつつ今生きていることを精一杯楽しむことなのです。とにかく見ないことにするために「不謹慎だ」とか批判してもどうしようもないこと。
どんなことでもこの物質世界の中では終わりは必ずくるのです。
このようなポスター問題を契機として考えてみたら良いのでは?
「私だったら・・・」を考えてみること、それが大切なことなんですね。
筆者の場合はなんの因果か考えざるを得ないような状況に追い込まれたものですからずっと考えてきたことで、言ってみれば当たり前のことなのですが、今では「今の自分があるのはこういう経験体験をしてきたからいまの自分があるわけで・・・などと感慨を深めたりしているわけです。
「人生会議」良いじゃないですか。
「平均寿命」よりも「健康寿命」を重視して生きていくキッカケにもなるでしょうし、どう生きていくのか? を自分自身に問いかけ考える良い機会だと思いますね。
永遠はありません。
人だっていつか必ず終わりは来る。
それが筆者の確信であり結論です。はい、間違いありません。
ではまた、です。
《あとがき》ですが、ちょくちょく書いているようにも思うのですがテレビの討論会で人生、生きるの死ぬのの討論番組があったのです。ある若いおそらく10代の娘さんの意見で「私のおばあちゃんにはどんな形ででも生きていて欲しい」と発言したんです。つまり人工呼吸でも胃瘻でもという話でお婆ちゃんが苦しんだとしても生きていて欲しいというまことに若い娘さんらしい意見だよなぁ、
と。自分が愛しているものはどんな形であれそこに存在し続けるべき。
そういう考え方なのです。攻めようと思えばいくらでも責められるけれどまだ生死の考え方が幼いだけの話なのだから口を極めて攻めているコメンテーターだか司会だかのほうに批判する気持ちがわいたことを思い出しました。