死に対する概念が違う日本人

Moaiの雑記と雑感と雑念

「国破れて山河在り」という昔の言葉がある。

私はこっち派だ。

幸いなことにこのブログは「「死」に対しての考え方を書くブログとして運営している。(再生後サボり気味だけれどやめる気は毛頭なくて・・・あ、モアイの髪の毛はまだあるよ(笑))

 

国が破れようと支配者が変わろうと、日本人には山河がある。そういう意識が日本人の心の中に厳然と存在している。そう考えて生きてきたけれど、どうも昨今はそうでもなくて、その山河が他人に買われているという。

昨日(2018.02.09)の虎ノ門ニュースで詳しく解説していた。(このようなニュース番組が存在していることはありがたい)

極端な状況を想像してみるに、日本という国土のすべてを奪われた時に日本人はどうするだろう?大人しく追い出されるだろうか?

「いやぁ、しないのではないか?」

それこそ死にもの狂いで一戦を始めるのでは?

もちろん、分からない妄想の類でしかないのだけれど、何割かはその行動を始めることは間違いないだろうけれど、自分はそのなかに入りたい。と思うだろう。と思うのだ。

 

たまに、何らかの機会に、テレビだったり書籍だったり、そういう状況に対しての他者の対応考え方を知ることがあって、共感することもある。

名前は出さないけれど、ある会話の場面で「日本がそんなことになったら私は日本刀を振りかざして突っ込んでいきますよ」という人がいて、非常に感動したし記憶に残っている。たぶん、1年か2年前くらいだったと思う。今でも鮮明に覚えている。

 

日本人には「生きているための意義」というものがあって、それは簡単に「生きがい」というものがあるのだろう。

「そんなくそみたいな世界になるのなら生きている甲斐がない」ということ。この人口比率が高いのだろう。と私は思う。

 

人は、生きのこることに全力を尽くす、死んでも全力を尽くす。

 

日本人の何割かの日本人は、「死に方に意義を求める」のではないかと思うし、そちら側にいたいと私は思うのだ。

だから正確に言えば、どこの国でも世界でも、あることだと思う。

ただそう考える日本人の比率は高いのではないか? と勝手に思い込んでいる。

そう思い込んでいるだけなのかもしれないね。分かっている誰かを巻き込もうなどと爪の先ほども思っていない。

 

で、そういう日本人の本質みたいなことを垣間見ることができた大東亜戦争の当時の敵国は日本を恐れている。といまでも言われる所以なのではないか?

逆に言えば、日本と闘っていないできたばかりのランドパワー(大陸側の数か国)には見えない。だから、嵩にかかってくるのかもしれない。一度お相手しよう、という意識になることがこの先、ないとは限らないのかもな。と《やもめのモアイ》は考える。

 

そう考えれば、いつか相まみえるような時代が来るのであれば、来てしまうのであれば、少し早いうちに始めて徹底的にお相手してあげればぁ・・・なんて考えることもあるのだ。